SUMMER RAIN

夏の雨は時に優しく、時に無情・・・

第4章 夢のかけら 〈5〉

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 いよいよ頂上に近づいていた。マスターは彼の方を向いてはいたものの、見通しの悪い前方からも目を離せずにいた。外はもう嵐で、木々は怒り狂ったように踊り続け、激しく車に打ちつける雨や風の音が彼のハスキーな声をかき消していく。

「全然気がつかなかったんだよな。まさか、あんなところにいるなんて…。なあ、そうだろ? そうだよな、雨で視界が悪かったもんな」

「おまえ、誰に言ってるんだ?」恐怖で喉がカラカラに乾き、マスターの声は嗄れていた。

 彼はそれまでの沈んだ様子から一変して、今度は狂気じみた高笑いを始めた。

「ほら、笑ってるじゃないか。聞こえるだろ?」

 マスターのからだに戦慄が走った。

「話してやれよ! キャプテンが聞きたいんだってさ」と彼は続けた。

「頼むからしっかりしてくれよ! いったい何の話なんだ?」

「後ろで笑ってるのが聞こえないのか?」彼はそう言うと左の口端だけ持ち上げて少し笑い、顎で後部座席を指し示した。

 マスターは弾かれたように後ろを振り向いた。それまで気づかずにいたが、白っぽい毛布が何かに掛けてある。恐る恐る触った。毛布は水浸しだった。思い切って剥ぎ取ると、小さな女の子が横たわっていた。

 

                                  〈続〉

第4章 夢のかけら 〈4〉

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 彼は口を閉ざしたまま高速を下りた。マスターは不安そうに彼をみつめていた。雨は休みことなく驚異的に降り続いている。暗闇の中へ車ごと吸い込まれていきそうな沈黙が続いた。そして車は細く曲がりくねった暗がりの山道を、彼の危なげなハンドル捌きで登り始めた。

 海を一望できるこの界隈は、普段ならカップルの乗った車が何台もたむろしている。ところが今夜は一台の車も見かけていない。つまり、こんな悪天候の夜にドライブするような〈狂人〉は自分たちだけなのである。車内という狭い空間の中、マスターの鼓動は次第に高鳴り始めた。

「なあ、戻ろうよ」とマスターは懇願した。

 すると彼は訳の分からないハミングを口ずさみ始めた。

 マスターの不安は一気に恐怖に変わった。「おい! 何とか言えよ!」と彼の肩を強く揺さぶった。

 しかし彼はハミングをやめない。

「おまえ、帰って休んだほうがいいぞ」と彼の感情を逆撫でしないよう、マスターは優しく諭すように言った。「俺も疲れてるし。な! 帰ろうぜ」

 彼は首を横に振った。「駄目なんだ」

「何が駄目なんだ?」

「待ってるんだ」

「誰が?」

「待ってるんだ、じき会えるさ」彼の目は虚ろだった。

「おまえ、自分で何言ってんのか、わかってるのか?」マスターは叫んでいた。

「実は、俺…」

「実は何だ? 何だよ? 早く言えよ!」

 いったい彼がどうしたのか、まるでわからないマスターは軽い眩暈さえ覚えた。

 

                                 〈続〉

第4章 夢のかけら 〈3〉

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 車は高速道路を走っていた。制限速度をはるかに超えたスピードを出し、時々スリップを起こしている。それでも彼は少しもスピードを緩めようとせず、ひたすら前方だけをみつめて沈黙を守っていた。

 マスターはようやく彼が酔っていることに気がついた。「おい、教授! 呑んでるだろ?」

「なあに、ビールを一杯ひっかけただけだよ。そんなに心配しなくても大丈夫さ」と彼は言った。

「とにかくスピードを落とせよ。落とさないんだったら、もうこれっきり友達やめるぞ!」とマスターは咎めるように強い調子で言った。

「あいよ、キャプテン」

 彼は渋々スピードを緩めた。

「ところで、誰と一緒だったんだ?」とマスターは彼を訝し気に見ながら、探るように訊いた。

「学生たちに誘われて、一緒に食べて騒いでたよ」と彼はさりげなく答えた。

「みんな元気か?」

「ああ、変わりなく」

「奥さんは元気か? 美代子ちゃんも可愛くなっただろう? そういえば、当分会ってないもんなあ」

 すると彼はマスターを鋭く一瞥し、「ガタガタ言うな!」と怒鳴った。

 マスターは一瞬たじろいだ。そんな彼を見るのは初めてのことだったのだ。

 ところが彼は怒鳴った直後、すぐさましどろもどろになりながら謝り始めた。「あ、いや、違うんだ、何でもない。御免! 御免よ! 美代子かい? ああ、ああそうだ、可愛くなったよ。俺に似てるんだ…」

「なあ、何かあったんだろう? 言えよ。水臭いじゃないか」とマスターは親身になって訊いた。

「本当に何でもないんだ。ちょっと考え事をしてただけだよ。それより、キャプテンの造った自慢の船、もう名前は決まったのかな?」

 彼が故意に話題を変えたので、マスターはもう少し様子を見てみることにした。「ああ、付けたよ。なんてことはない名前だよ」

「あ、待てよ。まさかキャプテンから取って『ザ・キャップ号』とかいうんじゃにだろうね?」彼は普段の調子に戻っていた。

 マスターは笑った。「もっと単純さ!」

「ヒントは?」

「俺の仕事に関係あるね」

「わかった! 『S&M号』だな!」

「その通り!」

「そいつぁ、いいね! Sun&Moon、太陽と月、そして果てしなく続く海」彼は茶化すように言った。

「ずっと話してた日本一周の計画、本気で考えてみようぜ。世界に一つしかない、俺の手作りの船は内装もバッチリだからな! いろんなアイデアが生かされてて、過ごしやすいこと請け合いだぜ!」

 マスターが夢見がちにそう言うと、彼はつと「無理だね」と呟いた。

「無理?」マスターは彼の言葉を繰り返した。

 

                                  〈続〉

第4章 夢のかけら 〈2〉

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 外に出ると土砂降りの雨が地面を叩きつけており、傘はほとんど役に立たなかった。マスターが急いで助手席に乗り込むと、車は滑るように動き出した。

 マスターのマンションは店からだいたい車で五十分くらいのところにある。彼の家まではそれからさらに一時間近くかかった。

「景気はどう?」と彼が訊いた。

「うん、相変わらずだね。今夜なんかは出だしは良かったんだけど、後がさっぱりだったよ」とマスターは答えた。

 それから二人の乗った車は交差点を右折した。しかし、それは帰路とは逆方向だった。

「おい、何処へ行くんだ?」と不審に思ったマスターが言った。「方向が違ってるよ」

「ちょっと走りたいんだ。つき合ってくれるだろ! キャプテン」彼の口調は極めて強引だった。

「この雨の中を?」とマスターは唖然として言った。

「こんな雨、たいしたことないさ。キャプテンと一緒なら、たとえ火の中水の中ってね!」彼は悪ぶれるでもなく言った。

「何処までいくんだ?」とマスターは諦め顔で訊いた。

「うん。海の見えるところ」と彼は言った。

 マスターは目を見開いた。「おい、ちょっと待てよ。真夜中なんだぜ! 海っつったってこの土砂降りに暗闇じゃ…」

「わかってないね!」と彼はマスターの言葉を制した。「そういう気分なの、俺。そう目くじら立てるなよ!」

 マスターは長いつき合いから、何かあったなと直感した。だから溜め息交じりに承諾した。

 

                                  〈続〉

第4章 夢のかけら 〈1〉

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 最後の客が出て行くと、マスターはドアに鍵をかけた。それから洗い物を手早く片づけ、カウンターの上で売上金の計算をしていた。その時、“ドンドン”とドアを執拗に叩く音がした。マスターはカウンターの隅にある小さな時計を見遣った。午前一時二十三分だった。

「悪いね、今夜はもう看板なんだよ!」とドアを見据えて言った。

「俺だよ! キャプテン!」とドア越しに男が言った。

「教授か?」マスターはすぐさまドアを開けた。「よう! 久しぶりだね。一人?」

 

 それは毎年八月に、マスターが船上で一緒に過ごす旧友だった。マスターが自分の店を持った直後からの付き合いなので、やはり二十年になる。二人は一級小型船舶操縦士の免許を取得するための講習会で知り合い、そしてすぐに意気投合した。当時マスターが二十九、彼は二十八だった。二人して一級免許を取得した時は、まるで子供のようにはしゃいだものだった。

 二人ともその頃は引き締まったからだつきをしていたが、歳月が二人の明暗を振り分け、今ではマスターは立派な太鼓腹をし、彼の方は相変わらず細いからだを維持している。彼は人生を上手に渡っている人間が往々にして持つ、溌剌とした表情をしており、実年齢より五つは若く見えた。気楽な生活を好むマスターは未だに独身だが、彼には十も年の離れた可愛い奥さんと、七歳になる、彼によく似た娘がいた。

 単なる講師だった彼も今では某大学の教授で、主に経済学を専門にしている。彼を慕っている学生たちと時々店にやってきた。彼らが来た夜は決まって店を閉めた後も貸切り状態となり、夜明け近くまでどんちゃん騒ぎに付き合わされることになった。しかし若者たちと過ごす時間は常に有意義なもので、彼らから教わることも決して少なくなかった。

 マスターは自分と同じ趣味を持つ、陽気で人懐こい彼と過ごす夏の十日間が楽しみだった。それは二人が免許を取って以来、一度も欠かすことなく続いている。街の雑踏や喧騒から解放され、照りつける太陽と潮風の中の十日間、果てしない水平線を見ながら二人でのんびりと釣糸を垂れ、彼がいつも楽しい冗談を言い、マスターは顔を皺くちゃにして笑った。彼はマスターのことを〈キャプテン〉と、マスターは彼のことを〈教授〉と呼び合っている。二人の夢はいつか船で日本を一周すること、そして年一回のこの行事を互いに耄碌するまで続けることであった。

 

「ああ、こっち方面に用事があって、ついでに寄ったんだ。もう帰るんだろ? 車だから送ってくよ」と入口のところから彼が笑顔で言った。

「そうか! 悪いね。すぐ行くから車で待っててくれないか?」

「あいよ!」

 彼が出ていくと、マスターはやりかけの帳簿を引き出しに収め、売上金をカバンに入れた。そして傘を一本持つと、店全体を見渡してから出ていった。

 

                                 〈続〉

第3章 裏切りの街角 〈7〉

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                ※

 

 今度はずぶ濡れの男が店に入ってきた。その姿は女のアパートへ帰ってきた時の彼と同じくらい、ひどく哀れだった。

 そして少しすると、ダーツで盛り上がっていた若い女と黒人たちが出ていった。店はまた静寂を取り戻した。

 

                 ※

 

 座り込んだ彼はそれから時間が経つのも忘れて、苦渋に満ちた自分の人生についての堂々巡りに没頭していた。気がつくと午後六時だった。女の店は七時からである。いつもならこの時間、メーキャップをしているはずの彼女は、まだうつ伏せで寝そべっていた。

「おい、今日は店に行かないのか?」と彼は静かに言った。

 返事がなかった。彼はもう一度、今度はどこかからだの調子でも悪いのかと訊いたが、それでも彼女は何も答えなかった。彼は彼女の肩を強く揺さぶって仰向けにした。彼女のからだはやけに重く、冷たかった。彼は弾かれたように後退りし、何かに躓いて転んだ。彼女は息をしていなかった。

 彼が躓いたのは小さな瓶だった。それは空になっていた。ようやく正気を取り戻した彼は、彼女のバッグの中身を丹念に調べた。通帳が出てきた。彼女の通帳だった。二千万円という数字が刻み込まれていた。

 

                 ※

 

 ずぶ濡れになっていた男が出ていき、店の客はまた彼一人になった。もうすぐ午前一時、閉店時間である。彼は一息でグラスを空にし、マスターに合図した。

「また近いうちに来てよ」とマスターが微笑んで言った。

 彼は少しだけ頷くと、何も言わずに出ていった。

 

 雨脚が強くなっていた。彼はその中を無意識のうちに歩いた。それまでずっとぼやけていた彼の視界に、突然見覚えのある街角が入った。彼は自分でも気づかないうちに、あの夜、彼女を待っていた通りを歩いていた。

 あの時、彼女は息せき切ってやってきた。まるで少女のように……。

 

                                 〈続〉

第3章 裏切りの街角 〈6〉

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                 ※

 

 店に若い女と黒人二人が入ってきた。彼には三人の話す英語が耳障りだった。

 

                 ※

 

 亡者の集う競馬場から放心状態で女のアパートへ帰ってくると、アパートの前で彼の妻が待っていた。彼女はその太ったからだにピッタリ合った品の良いグレンチェックのスーツを着ており、右手には紺色の傘、左手には高価そうなハンドバッグを携えていた。

「どうなさったの? 傘も持たないで」と妻はさして感情を込めずに言った。

「何の用だ? 何でこんなところにいる?」と彼はこの上なく不機嫌な調子で言った。

「はい、これ」と彼女はバッグから一枚の紙切れを取り出して言った。「判を押してちょうだい。あなたの印鑑も持ってきたわ」

 彼はそれをひったくるようにして取った。離婚届けだった。既に彼女のサインは済んでいる。

「心配なさらなくても、子供は私が引き取ります。養育費もいりません!」と彼女は毅然とした態度で言った。

 突然のことで彼は一瞬躊躇した。しかし、すぐ開き直ったように黙々とその場でサインをし、その紙切れを乱暴に突き返した。

 彼女は満足そうにそれを眺めると、大事そうにバッグに収めた。「これでスッキリしたわ。会社に行ったんだけど、何やらすごい騒ぎだったわよ」

 それを聞いた彼はみるみる顔の表情を強張らせ、すごい剣幕で怒鳴り散らかした。

「うるさい! 用が済んだんなら早く帰れ!」

「はいはい、すぐ帰るわよ。実はね、私、当たっちゃったのよ、宝くじの一等が。一億三千万円よ!」茫然としている彼ににっこり微笑むと、彼女はくるりと背を向けて歩き始めた。

 その後ろ姿を見ながら、何を言っているんだ、この女。宝くじの一等だと! 一億三千万円だなんて馬鹿馬鹿しい、と思っていた。

 すると彼女はふいに振り返った。「どうやら留守らしいわね、あなたの愛人さん。まあ精々しっかりね。ごきげんよう!」弾んだ声でそう言うと、今度こそ本当に去っていった。

 彼女の言葉に一抹の不安を覚えた彼は、急いでドアの鍵を開けた。部屋は彼が朝、出た時と同じ状態だった。女はいた。ほっと安堵し、彼は窓際に座り込んだ。

 

                                 〈続〉

第3章 裏切りの街角 〈5〉

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 雲が低く垂れこめた競馬場は人で溢れ、澱んだ空気が広がっていた。遠ざかっていた勝負師の感覚はすぐに蘇ってきた。早速競馬新聞を買い、パドックを食い入るようにみつめては、赤ペンで印をつけたり数字を書き込んだりしていた。

 手始めに賭けた九レースは見事に的中し、五十万円は七十八万円になった。彼は馬券が外れて愚痴っている人々を得意満面で見回した。

 次の十レースでは勢いに乗って十万円ずつ三点買いをし、何とこれまた的中。今度はなかなかの高配当で、手持ちの金額は合計三百七十三万円にもなった。

 こうなるともう笑いが止まらなかった。待ち続けていた時が遂にやってきた、今日こそが運命の日、今、俺はでっかい波に乗っている、こういう時はその波に乗ってとことん勝負する、それが正真正銘のギャンブラーというものだ。ただの雑誌の受け売りだったが、いつもの青白い顔は珍しく紅潮していた。

 次は今日のメインレース、芝の二千メートルだった。オッズではダントツで五番の馬が一番人気、大本命である。考え抜いた末、彼が賭けたのは三番の単勝だった。ここが勝負どころとばかりに手持ちの現金すべてを賭けた。三百七十三万円をである。生まれつき小心者の彼は、買う時に微かに手が震えていた。

 買った馬券を祈りながら内ポケットにしまい、上着の上から軽く擦った。三番は二番人気で、オッズによると五倍になっていた。彼がなぜ三番を選んだかというと、新聞に載っていた占いで、今日の彼のラッキーナンバーだったからである。もし的中すれば、千八百六十五万円になるのだ。千八百六十五万円、その夢のような大金が、手を伸ばせば届くところにあった。

 遂に雨が落ち始めた。ファンファーレが鳴り、どっと歓声が沸き起こった。興奮状態だった彼は傘もささずに見守った。十六頭の馬は難なくスタートし、予想通りの展開を繰り広げた。三番の馬は中団で本命の五番にピッタリ張りついている。彼は思わずほくそ笑んだ。彼の描いたシナリオでは、最後の直線勝負で三番の馬がグングン伸びて見事五番の馬をかわし、そのまま一気にゴールを駆け抜けることになっていた。

 それは第三コーナーに差しかかった時のことだった。客席から悲鳴に近いどよめきが起こった。五番の馬が突然崩れるように倒れたのである。当然騎手は落馬し、後ろにいた三番の馬も巻き込まれた。大波乱となったレースはそのまま続行され、終わってみると万馬券になった。彼の歯はカチカチと鳴っていた。彼の波は去ったのである。

 

                                 〈続〉

 

第3章 裏切りの街角 〈4〉

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                 ※

 

 騒がしかった若者たちが店を出ていき、代わりに重苦しい沈黙が店を支配した。

「今、出てった中の一人、今日の競馬で大穴を当てたらしいよ」とマスターは空になった彼のグラスを笑顔で満たしながら言った。

 彼はマスターをすばやく一瞥すると、「そう…」と素気なく言った。

 マスターは出ていった若者たちのグラスを片づけ始めた。

 

                 ※

 

 今朝の彼女はこれまでとは一転して激しかった。明け方店から戻ってくると、寝ている彼の隣に横たわり、初めて自分から誘いかけてきたのだ。彼がその気になると、まるで何かにとり憑かれたように更なる快楽を欲して呻き声を漏らした。彼女の中で何かが燃えていた。

 そんな彼女に刺激され、彼はそれまで持ち合わせていなかった、女という生き物に心から何かをしてやりたいという感情を呼び起こされた。

「お前、欲しいものはないか?」と流れ出る汗を拭いながら彼は言った。

「何もいらないわ。あんたさえいてくれたら…それでいいの」彼女はそう囁くとまたからだをすり寄せてきた。

 彼はもう一度彼女の中へ入っていった。

 

 少ない睡眠時間にもかかわらず、彼は爽快な気分で会社に出た。しかも朝からツイていた。外回りは午後からだったので店頭にいると、ヤクザな外見をした中年男がやってきて、置いてある紺のメルセデスの中古に試乗したいと言う。二人でその車に乗り込み、会社のまわりをグルッと一周した。接客した彼は珍しく饒舌だった。

 ものの五分で話はついた。その男は即金を希望し、アタッシュケースから四百五十万円もの現金を取り出した。そんなことは初めての経験だったし、何とも胡散臭い話なので部長に事情を説明した。すると部長はすぐにその現金を銀行に預けるよう彼に指示し、「気をつけろ」と執拗に注意した。

 銀行に行く道中、その考えが浮かんだ。彼は持っていた現金を口座に振り込むと、どぎまぎしながら一路、競馬場へと向かった。上着の内ポケットには抜き取った五十万円が入っていた。それまで世間体を気にしてうまく振る舞っていたが、彼は根っからのギャンブル好きだった。得てしてギャンブル好きな人間というのは負けても懲りず、変な迷信に固執したり、ギャンブル美学なるものを崇拝していたりする。彼もまたそういった種類の人間だった。しかし景気が悪くなってからは、さすがの彼も賭博場に足を運ぶことができなくなっていた。

 その五十万円を元手に今日のツキなら何十倍にもなる、いや、何百倍にもしてやろう、そうしたら拝借した五十万円はすぐに口座に振り込めばいいし、残りの大金で彼女と二人、どこか遠くで暮らそうと考えていた。今日はすべてがうまくいくと、彼は信じきっていた。

 

                                 〈続〉