第1章 見返りなき愛 〈1〉
泰彦はカウンターに座るとスコッチを注文した。この店に顔を出すようになって既に8年の、馴染み客の一人である。午前零時を回っていた。店には隅の一角でダーツに興じている若い女と黒人二人、それにサラリーマン風の中年男が一人いるだけだった。黒人の一人は熱中してか、英語で仲間にまくしたてている。
泰彦はからだをぐったりとスツールに預け、おもむろにタバコを取り出した。それから果てしなく立ちのぼってゆく紫煙をぼんやりとみつめていた。
今から4時間前、午後8時には依子がひいきにしているレストランで、彼女と一緒にフランス料理を食べていた。例のごとく全身をブランドで固めた美しい彼女に、内心うんざり気味だが気の利いた料理、そして1ヶ月後に控えた二人の結婚。夕方から降り始めた夏の優しい雨が行き交う車のライトに照らされて、煌めいているのがガラス越しに見えた。
確かに彼は幸福だった。
〈続〉