第1章 見返りなき愛 〈6〉
〈家柄〉や〈地位〉、そして〈泰彦の独立〉に対する父親の後押しの話を持ち出して、〈自分や自分たちの正当性〉を論じ始めた“見知らぬ女”を泰彦は見つめていた。それはまさしく“あの連中”の顔だった。あの、人を見下したような傲慢な表情、それが当然であるかのように人に肯定することを促すあの表情が、今この瞬間に自分に向けられたのだ。彼女の世界に酔い、その中で生きることを熱望してはいたものの、こんなに軽々しく扱われることは彼の膨れ上がった自尊心が許さなかった。
泰彦はこみ上げる怒りを何とか抑えようと、タバコに火をつけた。
「ねぇ、聞いてるの?」と依子が言った。
彼は深く吸い込んだ煙を吐き出すと、強風の吹き荒ぶ崖っぷちに追いやられた自分の立場を守るため、ぎりぎりの攻防を始めた。
「君は僕のどこが良かったのかな?」
「どうしたのよ、今更」彼女は訝しげな表情をした。
「いいから、言ってみてくれないか」今度は有無を言わせない強い調子で彼は言った。
依子は泰彦の目を真っ直ぐみつめた。「決まってるじゃない。あなたの〈才能〉よ!」
その言い方はひどく不快そうだったが、泰彦はその言葉に自尊心を回復したようだった。少し横柄になった態度を見れば一目瞭然である。
「才能ね、光栄だな」と彼は故意に傲慢な響きを交えた声で言った。「しかし、どうも君は誤解しているみたいだな。僕は別に“南条家の一員”になりたくて君と結婚するわけじゃないんだよ」
「そう!」依子は意外だと言わんばかりの表情をした。「それじゃあ、あなたは私の家柄なんかには興味ないっていうのね?」
「断っておくけど、僕が結婚するのは君とであって、君の家とじゃない。君を一人の女性として愛しているからさ。君はどうなんだ? まさか僕と結婚するのは、僕が〈非凡な才能〉の持ち主だからってことだけじゃないだろうね?」
依子は僕の魅力について語り始めるはずだ。そうしたら僕の優位を彼女に確認させるべく、もっともらしい自論を説いて聞かせよう。泰彦は依子をねじ伏せるつもりでいた。
しかし、その思惑は見事に空中で分解した。
「他に何があるっていうのよ?」と依子は目を丸くして言ったのだ。
「何って…」泰彦には何故自分の思い通りに話が運ばないのかわからなかった。「僕という人間についてどう思っているのかってことだよ」
それはもう懇願に近かった。
依子はけだるい溜め息を1つつくと、品定めをするみたいに泰彦を眺めた。「そうねぇ…、あなたの…そう! 足の形が好きよ! すらっと伸びてて格好いいもの」
「足…?」彼の声はそこで途切れた。話題になっているのが自分のことだとは到底信じられなかった。これではまるでペットではないか。
「ねぇ、どうしたのよ。そんな怖い顔しないで頂戴」依子は科をつくった。もうこんな意味のない話は早く終わりにしたかったのだ。
泰彦は目の前にいる美しい顔をした偽善者に、確固たる嫌悪感を抱いた。世界一下品で通俗的な女だ。おまけに、おつむも弱いときてる。
「別にどうもしないさ。ただ僕は、自分の人生は自分で決めるよ。これまでもそうだったし、これからだってそうなんだ。まず僕は新郎役を辞退する! 御免だね! もう沢山だよ!」
いきり立った彼は勢いよく立ち上がった。
依子の表情は一瞬こわばったが、ふと口許に嘲りの笑みが浮かんだ。「あなたにそんなことできっこないわ! それとも、私との〈約束された未来〉なんて、どうでもいいのかしら?」
実に冷ややかで確信のある声だった。
追い詰められた獣は情け容赦なく止めの一撃を受けた。いつのまにか泰彦の野心は、彼が〈あの連中〉と呼ぶ人々の世界にすっぽり包まれて、その麻薬のような生活から抜け出すことが困難になっていた。彼のプライドや人格は、もはやこれからの人生においてどんな意味も成さない。もしそれに固執しようとすれば、それだけ彼自身が苦痛に苛まれるだけなのである。
言葉を失った彼は依子を鋭く睨むと、口を歪めてその場を離れた。
〈続〉