SUMMER RAIN

夏の雨は時に優しく、時に無情・・・

2020-04-01から1ヶ月間の記事一覧

第3章 裏切りの街角 〈7〉

※ 今度はずぶ濡れの男が店に入ってきた。その姿は女のアパートへ帰ってきた時の彼と同じくらい、ひどく哀れだった。 そして少しすると、ダーツで盛り上がっていた若い女と黒人たちが出ていった。店はまた静寂を取り戻した。 ※ 座り込んだ彼はそれから時間が…

第3章 裏切りの街角 〈6〉

※ 店に若い女と黒人二人が入ってきた。彼には三人の話す英語が耳障りだった。 ※ 亡者の集う競馬場から放心状態で女のアパートへ帰ってくると、アパートの前で彼の妻が待っていた。彼女はその太ったからだにピッタリ合った品の良いグレンチェックのスーツを着…

第3章 裏切りの街角 〈5〉

雲が低く垂れこめた競馬場は人で溢れ、澱んだ空気が広がっていた。遠ざかっていた勝負師の感覚はすぐに蘇ってきた。早速競馬新聞を買い、パドックを食い入るようにみつめては、赤ペンで印をつけたり数字を書き込んだりしていた。 手始めに賭けた九レースは見…

第3章 裏切りの街角 〈4〉

※ 騒がしかった若者たちが店を出ていき、代わりに重苦しい沈黙が店を支配した。 「今、出てった中の一人、今日の競馬で大穴を当てたらしいよ」とマスターは空になった彼のグラスを笑顔で満たしながら言った。 彼はマスターをすばやく一瞥すると、「そう…」と…

第3章 裏切りの街角 〈3〉

それから女は流していたタクシーを拾い、彼を自分のアパートに連れていった。部屋には必要最低限のものしか置いておらず、電話もなく、カーテンさえ取り付けていなかった。あまりにも色気のない部屋だったことは確かである。しかし、すでに口の渇きに耐えか…

第3章 裏切りの街角 〈2〉

三週間ほど前、彼が二か月もの間に一台も売らなかったことで、遂に部長から〈給料泥棒〉とまで言われた。丸く、血色の良い部長の顔が自分を蔑んでいた。彼はカッと頭に血がのぼり、右手をギュッと握りしめたが、最後までその拳が振り上げられることはなかっ…

第3章 裏切りの街角 〈1〉

男が店にやってきたのは午後九時半頃だった。店は能天気な若い男女で溢れていた。マスターが一番奥に席をつくってくれ、ようやく座ると男はスコッチを注文した。 「久しぶりじゃない!」と琥珀色のグラスを差し出しながらマスターが言った。 「え? ああ、そ…

第2章 ヒッピーに憧れて〈7〉

ふと気がつくと、トミーが「ダーツをしよう」と呼んでいた。 「OK!」 それから三人はダーツで盛り上がった。彼女は二人の永遠の愛を祈った。 暫くすると、びしょ濡れになった男が一人で店に入ってきた。顔色は冴えず、心ここにあらずといった感じだった。 三…

第2章 ヒッピーに憧れて〈6〉

パリでの二人の関係は申し分なかった。麻美の機嫌がすこぶる良かったからである。エッフェル塔やコンコルド広場、シャンゼリゼでのショッピング。恵理は大いにパリが気に入った。パリの人々は時間に逆らわず、自由にのびのびと生きている。何より彼女が好き…

第2章 ヒッピーに憧れて〈5〉

恵理は麻美と違って物欲がなく、性別も彼女にとっては無意味なものだった。そして七十年代のヒッピーに漠然とした憧れを抱いていた。彼らのように何物にも囚われない自由な生き方をし、自分のすべてを解き放ちたいと思っていたのである。彼女の理想は男女を…

第2章 ヒッピーに憧れて〈4〉

二年前、恵理はある高級クラブでピアノを弾いていた。その日もいつものように午前三時に店を引け、裏から出ていくと、一台の車が待っていた。 後部座席の女が顔を覗かせた。「ピアノ、すごく良かったわ」女は微笑みながら言った。「よかったら、うちに来ない…

第2章 ヒッピーに憧れて〈3〉

「久しぶりね、恵理。方々探し回ったのよ」 女は相変わらず美しかったが、肌に翳りが感じられた。完璧なメイクの下で、歳月が少しずつ、しかし確実に彼女の肌を蝕んでいるようだ。そこは殺伐としたところで、置いてあるのは小型テーブルとそれを挟んで布張り…

第2章 ヒッピーに憧れて〈2〉

今日の正午過ぎ、人気のない通りを恵理は一人で歩いていた。雨はまだ降っていなかったが、どんよりと曇った空がすべての色彩をぼやけさせ、生温かい風が肌にまとわりついて離れなかった。 突然、猛スピードでやってきた一台の車が恵理のところで急ブレーキを…

第2章 ヒッピーに憧れて〈1〉

恵理が二人の黒人(ジョージとトミー)と一緒に店にやってきた時、客はサラリーマン風の男一人だけだった。午後十一時を過ぎていた。カウンターに並んで座るとマルガリータを三つ注文した。 ジョージたちは二か月前、シアトルから遊びがてら日本にやってきて…

第1章 見返りなき愛 〈7〉

愛想良く出されたスコッチを、泰彦は一気に半分近く飲んだ。アルコールが身体の細胞の隅々まで染み渡っていくようだった。 「随分と濡れたね」とマスターがタオルを差し出しながら言った。 床に水滴を滴らすほど濡れていることに、彼はそれまで気づかずにい…

第1章 見返りなき愛 〈6〉

〈家柄〉や〈地位〉、そして〈泰彦の独立〉に対する父親の後押しの話を持ち出して、〈自分や自分たちの正当性〉を論じ始めた“見知らぬ女”を泰彦は見つめていた。それはまさしく“あの連中”の顔だった。あの、人を見下したような傲慢な表情、それが当然である…

第1章 見返りなき愛 〈5〉

依子は今日の夕方、十日間のカリブ旅行から帰国したばかりだった。独身時代最後の思い出旅行は相当楽しかったらしく、レストランに入ってからも暫くの間夢中になって喋り続けていた。一か月後に新婚旅行でヨーロッパ一周旅行に出かけるというのに、わざわざ…

第1章 見返りなき愛 〈4〉

依子は二十五年間の人生に於いて、欲しいものを取りこぼしたことはただの一度もなく、泰彦でさえその例外ではなかった。一見育ちの良さそうな、生命感溢れる表情をした、今や絶頂期と思われる彼が、まるで壊れやすい宝物を扱うように彼女の傍らに存在するの…

第1章 見返りなき愛 〈3〉

翌日の夕方『プロジェクトJC』の社長から電話で夕食に誘われた。泰彦が指定された場所に行くと、待っていたのは髪の長い女だった。それが依子であることに気づくまで数秒かかった。前日のパーティーでは髪をひっつめていたので、まるきり違う女に思えたので…

第1章 見返りなき愛 〈2〉

依子と出会ったのは今からおよそ半年前の、祝賀パーティーでのことだった。 四年前、全国で一、二を争うホテルチェーンを持つ、名うての『プロジェクトJC』から泰彦の勤める『サンライズ・コンサルタント』へ設計の依頼があり、その大役が目下成長株だった泰…

第1章 見返りなき愛 〈1〉

泰彦はカウンターに座るとスコッチを注文した。この店に顔を出すようになって既に8年の、馴染み客の一人である。午前零時を回っていた。店には隅の一角でダーツに興じている若い女と黒人二人、それにサラリーマン風の中年男が一人いるだけだった。黒人の一人…

序章

地下2階にあるショットバー『S&M』は、壁にマホガニー調の板を張り巡らせ、点々と散らばる古めかしいランプが店内を黄金色に染めている。そろそろ五十に手の届きそうなマスターの思惑通り、〈大型クルーザーのキャビン〉を巧く演出していた。 上唇に髭を蓄…