第1章 見返りなき愛 〈7〉
愛想良く出されたスコッチを、泰彦は一気に半分近く飲んだ。アルコールが身体の細胞の隅々まで染み渡っていくようだった。
「随分と濡れたね」とマスターがタオルを差し出しながら言った。
床に水滴を滴らすほど濡れていることに、彼はそれまで気づかずにいた。折角のブランドスーツも台無しだった。濡れた髪や服を入念に拭き、残りのスコッチを飲みほすと、おかわりを注文した。
「まだ降ってるのね」と先程までダーツに興じていた若い女がふいに泰彦に声をかけた。
見ると一緒にいた二人の黒人はすでに姿を消している。すっきりとした顔立ちをし、それでいてどこか謎めいた雰囲気のあるこの女は、Tシャツにジーンズというラフなスタイルで、二十二、三歳くらいに見えた。
「止みそうにないよ」
彼がそう答えると、今度は傘を持ってないのかと訊いてきた。
「どこかに置いてきたらしいんだ」泰彦は俄かに寒気を覚えた。
不憫に思ったのか女は持っていたナイロン製の傘を泰彦に手渡し、「風邪ひくわよ」と言って出ていった。
彼は「参ったな」と呟いてから、白い歯を覗かせて悪意なく笑っているマスターを尻目に二杯目のスコッチを飲みほした。
「あの子、よく来るの?」
泰彦はたいして関心なさそうに訊いたが、マスターは何かに導かれるように泰彦の前にやってきて、囁くように言った。「二、三日前に初めて来たんだよ。変わった子でさ、一緒にいた二人の黒人見ただろ? 彼らはカップルで、あの子はその、何ていうか…彼らの〈見返りを求めない愛〉とやらにご執心らしいんだ」それから大袈裟に両手を広げ、『理解できないね』といった表情をしてみせてから、「でも素直で良い子だよ」と付け加えた。
泰彦はほんの少し頷いた。その時彼はこの店が本物のクルーザーの客室で、今しがた出航したところだったらどんなにいいだろうと考えていた。
泰彦は清算しながら「海の一番の魅力って何?」と訊いた。
暖かな室内ランプに包まれたマスターは満足そうに微笑み、自慢の髭を撫でた。
「そりゃ君、懐の深さだよ!」
外はまだ雨が降り注いでいた。彼は先の女の施し物である傘を手に暫く佇んでいたが、「見返りね…」と一人呟くと、ようやく傘を広げて歩き始めた。
〈続〉