第2章 ヒッピーに憧れて〈1〉
恵理が二人の黒人(ジョージとトミー)と一緒に店にやってきた時、客はサラリーマン風の男一人だけだった。午後十一時を過ぎていた。カウンターに並んで座るとマルガリータを三つ注文した。
ジョージたちは二か月前、シアトルから遊びがてら日本にやってきて、通りでアクセサリーを売っている。彼女はその中に可愛いイヤリングを見つけて座り込み、彼らと話し込んだ。彼女は英語が話せた。真っ直ぐな瞳をした、物おじしない彼女に二人の黒人が心を開くまで、そんなに時間はかからなかった。一週間前のことである。
彼らはゲイだった。どんな逆境にも挫けない強さと、他人を思いやる優しさを持っていた。相手に何も望まない二人の愛を恵理は美しいと思った。それは彼女が永遠に求め続け、また永久に掴めそうにないものでもあった。
マルガリータを一口飲むと、恵理が訊いた。「ねえ、マスター、この前聞き忘れたんだけど、この店の名前って何の略? どう見たってSMとは関係なさそうだし」そう言って店内を見回した。
「それ聞かれるの、久しぶりだなあ」とマスターは嬉しそうに言った。「だいたい店のイメージで想像はつくと思うけど、航海した時に船上から見えるものだよ」
恵理はすぐに察した。「太陽と月! Sun&Moon(サン&ムーン)ね」
するとジョージとトミーも話の内容を理解したらしく軽く微笑んだ。
「洒落てるわね」と恵理は続けた。「フランス語だったら Soleil&Mer (ソレイユ&メール)で“太陽と海”にもなるわよ」
「へえー、そう!」とマスターは感嘆の眼差しで恵理を見た。
その後恵理はジョージたちと英語でやりとりしていたが、そのうち一人で物思いに耽った。彼女の頭の中では、TVや映画で観たセピア色の映像が繰り返し再生されていた。登場するのは自由気ままな、長髪のヒッピーたちの姿だった。
〈続〉
第1章 見返りなき愛 〈7〉
愛想良く出されたスコッチを、泰彦は一気に半分近く飲んだ。アルコールが身体の細胞の隅々まで染み渡っていくようだった。
「随分と濡れたね」とマスターがタオルを差し出しながら言った。
床に水滴を滴らすほど濡れていることに、彼はそれまで気づかずにいた。折角のブランドスーツも台無しだった。濡れた髪や服を入念に拭き、残りのスコッチを飲みほすと、おかわりを注文した。
「まだ降ってるのね」と先程までダーツに興じていた若い女がふいに泰彦に声をかけた。
見ると一緒にいた二人の黒人はすでに姿を消している。すっきりとした顔立ちをし、それでいてどこか謎めいた雰囲気のあるこの女は、Tシャツにジーンズというラフなスタイルで、二十二、三歳くらいに見えた。
「止みそうにないよ」
彼がそう答えると、今度は傘を持ってないのかと訊いてきた。
「どこかに置いてきたらしいんだ」泰彦は俄かに寒気を覚えた。
不憫に思ったのか女は持っていたナイロン製の傘を泰彦に手渡し、「風邪ひくわよ」と言って出ていった。
彼は「参ったな」と呟いてから、白い歯を覗かせて悪意なく笑っているマスターを尻目に二杯目のスコッチを飲みほした。
「あの子、よく来るの?」
泰彦はたいして関心なさそうに訊いたが、マスターは何かに導かれるように泰彦の前にやってきて、囁くように言った。「二、三日前に初めて来たんだよ。変わった子でさ、一緒にいた二人の黒人見ただろ? 彼らはカップルで、あの子はその、何ていうか…彼らの〈見返りを求めない愛〉とやらにご執心らしいんだ」それから大袈裟に両手を広げ、『理解できないね』といった表情をしてみせてから、「でも素直で良い子だよ」と付け加えた。
泰彦はほんの少し頷いた。その時彼はこの店が本物のクルーザーの客室で、今しがた出航したところだったらどんなにいいだろうと考えていた。
泰彦は清算しながら「海の一番の魅力って何?」と訊いた。
暖かな室内ランプに包まれたマスターは満足そうに微笑み、自慢の髭を撫でた。
「そりゃ君、懐の深さだよ!」
外はまだ雨が降り注いでいた。彼は先の女の施し物である傘を手に暫く佇んでいたが、「見返りね…」と一人呟くと、ようやく傘を広げて歩き始めた。
〈続〉
第1章 見返りなき愛 〈6〉
〈家柄〉や〈地位〉、そして〈泰彦の独立〉に対する父親の後押しの話を持ち出して、〈自分や自分たちの正当性〉を論じ始めた“見知らぬ女”を泰彦は見つめていた。それはまさしく“あの連中”の顔だった。あの、人を見下したような傲慢な表情、それが当然であるかのように人に肯定することを促すあの表情が、今この瞬間に自分に向けられたのだ。彼女の世界に酔い、その中で生きることを熱望してはいたものの、こんなに軽々しく扱われることは彼の膨れ上がった自尊心が許さなかった。
泰彦はこみ上げる怒りを何とか抑えようと、タバコに火をつけた。
「ねぇ、聞いてるの?」と依子が言った。
彼は深く吸い込んだ煙を吐き出すと、強風の吹き荒ぶ崖っぷちに追いやられた自分の立場を守るため、ぎりぎりの攻防を始めた。
「君は僕のどこが良かったのかな?」
「どうしたのよ、今更」彼女は訝しげな表情をした。
「いいから、言ってみてくれないか」今度は有無を言わせない強い調子で彼は言った。
依子は泰彦の目を真っ直ぐみつめた。「決まってるじゃない。あなたの〈才能〉よ!」
その言い方はひどく不快そうだったが、泰彦はその言葉に自尊心を回復したようだった。少し横柄になった態度を見れば一目瞭然である。
「才能ね、光栄だな」と彼は故意に傲慢な響きを交えた声で言った。「しかし、どうも君は誤解しているみたいだな。僕は別に“南条家の一員”になりたくて君と結婚するわけじゃないんだよ」
「そう!」依子は意外だと言わんばかりの表情をした。「それじゃあ、あなたは私の家柄なんかには興味ないっていうのね?」
「断っておくけど、僕が結婚するのは君とであって、君の家とじゃない。君を一人の女性として愛しているからさ。君はどうなんだ? まさか僕と結婚するのは、僕が〈非凡な才能〉の持ち主だからってことだけじゃないだろうね?」
依子は僕の魅力について語り始めるはずだ。そうしたら僕の優位を彼女に確認させるべく、もっともらしい自論を説いて聞かせよう。泰彦は依子をねじ伏せるつもりでいた。
しかし、その思惑は見事に空中で分解した。
「他に何があるっていうのよ?」と依子は目を丸くして言ったのだ。
「何って…」泰彦には何故自分の思い通りに話が運ばないのかわからなかった。「僕という人間についてどう思っているのかってことだよ」
それはもう懇願に近かった。
依子はけだるい溜め息を1つつくと、品定めをするみたいに泰彦を眺めた。「そうねぇ…、あなたの…そう! 足の形が好きよ! すらっと伸びてて格好いいもの」
「足…?」彼の声はそこで途切れた。話題になっているのが自分のことだとは到底信じられなかった。これではまるでペットではないか。
「ねぇ、どうしたのよ。そんな怖い顔しないで頂戴」依子は科をつくった。もうこんな意味のない話は早く終わりにしたかったのだ。
泰彦は目の前にいる美しい顔をした偽善者に、確固たる嫌悪感を抱いた。世界一下品で通俗的な女だ。おまけに、おつむも弱いときてる。
「別にどうもしないさ。ただ僕は、自分の人生は自分で決めるよ。これまでもそうだったし、これからだってそうなんだ。まず僕は新郎役を辞退する! 御免だね! もう沢山だよ!」
いきり立った彼は勢いよく立ち上がった。
依子の表情は一瞬こわばったが、ふと口許に嘲りの笑みが浮かんだ。「あなたにそんなことできっこないわ! それとも、私との〈約束された未来〉なんて、どうでもいいのかしら?」
実に冷ややかで確信のある声だった。
追い詰められた獣は情け容赦なく止めの一撃を受けた。いつのまにか泰彦の野心は、彼が〈あの連中〉と呼ぶ人々の世界にすっぽり包まれて、その麻薬のような生活から抜け出すことが困難になっていた。彼のプライドや人格は、もはやこれからの人生においてどんな意味も成さない。もしそれに固執しようとすれば、それだけ彼自身が苦痛に苛まれるだけなのである。
言葉を失った彼は依子を鋭く睨むと、口を歪めてその場を離れた。
〈続〉
第1章 見返りなき愛 〈5〉
依子は今日の夕方、十日間のカリブ旅行から帰国したばかりだった。独身時代最後の思い出旅行は相当楽しかったらしく、レストランに入ってからも暫くの間夢中になって喋り続けていた。一か月後に新婚旅行でヨーロッパ一周旅行に出かけるというのに、わざわざこの時期にカリブまで行くこともないだろうと内心思いながら、泰彦は一貫して聞き役に回っていた。彼女は喋るだけ喋るとスッキリした様子で、目の前に出された料理をやっと食べ始めた。
デザートの〈生クリーム添え木苺のムース〉が赤く縁取られた口に運ばれていくのを見ながら、今度は泰彦が披露宴に招待する大学時代の友人について話していた。しかしそれはたいして彼女の興味をひかないようだった。
依子は持っていた銀のスプーンをプレートに乗せると俄かに微笑んだ。「私…幸せよ」
「僕も嬉しいよ」泰彦はテーブルの上で、彼女の滑らかな手を優しく愛撫するように握りしめた。「君のような素敵な子を妻にできるんだからね」
彼女は微笑したままだった。「そして、あなたは私たち“南条家の一員”になるのよ。今までの、退屈でつまらない生活習慣は一日も早く忘れてね」
束の間の沈黙が続く中、頭の中を依子の言葉が這いずり回り、それに追い立てられるようにしてそれまで彼を褒めそやしていた天使たちが次々に退散していった。
つと握っていた彼女の手を離したが、泰彦は努めて冷静を装って言った。「それは、どういう意味だい?」
しかしその声は微妙に戦慄いていた。
〈続〉
第1章 見返りなき愛 〈4〉
依子は二十五年間の人生に於いて、欲しいものを取りこぼしたことはただの一度もなく、泰彦でさえその例外ではなかった。一見育ちの良さそうな、生命感溢れる表情をした、今や絶頂期と思われる彼が、まるで壊れやすい宝物を扱うように彼女の傍らに存在するのは至極当然のことだったのである。
この高慢な娘はその家柄や美貌のおかげで男たちからもてはやされ、愛されてもきたが、一度も誰かに満足したことはなかった。それまでの彼女のお相手は紋切型しか知らないお粗末な男ばかりで、いつも彼女の期待を裏切っては捨てられてきた。
そんな彼女も泰彦との出会いには手放しの喜びようだった。彼女の眼に〈異端児〉と映った彼が彼女の期待を裏切ることはまずないように思えた。満たされた精神は倦怠感を見事一掃し、彼女を内面から輝かせていった。
出会いから三か月たったある夜、泰彦は依子の上で果てた後、彼女をそっと抱き寄せた。「結婚しないか? ずっとそばにいて欲しいんだ」と彼は言った。
依子はこの申し出をずっと待ち望んでいたかのように、恍惚とした表情で即座に答えた。「いいわ!」
こうして二人は晴れて婚約した。すべてが順風満帆だった。披露宴には大物政治家や著名文化人など、そうそうたるメンバーが招待されていた。
〈続〉
第1章 見返りなき愛 〈3〉
翌日の夕方『プロジェクトJC』の社長から電話で夕食に誘われた。泰彦が指定された場所に行くと、待っていたのは髪の長い女だった。それが依子であることに気づくまで数秒かかった。前日のパーティーでは髪をひっつめていたので、まるきり違う女に思えたのである。
「驚かせちゃったかしら? わたくしが父に頼みましたの」と驚いている泰彦に依子は朗らかに言った。そして伏し目がちにこう続けた。「是非もう一度、あなたとお会いしたくて」
その思いがけない出来事に戸惑ったのも束の間、自分の容姿や男としての魅力にかなりの自信を持っていた泰彦は、依子の大胆なアプローチを当然のこととして甘受した。もともと女に不自由せず、単に選り好みのしすぎで結婚に至っていないだけだったし、建築家としての地位を確立したことが彼の自惚心をそれまで以上に引き伸ばしていた。
依子のひどく他人行儀な話し方も、泰彦の慇懃な物腰も、表面上すぐに姿を消していき、あくまで指導権を握りたがるプライドの高い泰彦に依子が従う、といった形で二人の関係はうまくいった。
彼女と過ごす夜は驚きの連続で、普段の上品な物腰からは想像できない貪欲な娼婦へと豹変した。手入れの行き届いたみずみずしい素肌は妖しい香りを放ち、秘密の花園へと導いていく。激しい抱擁の後、その可愛い雌虎はいつも満足そうに微笑していた。
泰彦はつき合ってまもなく、他人について話す依子の言葉の裏に金持ち特有の嘲りの意味が潜んでいることに気づいたが、自分や自分の知人に対してそういう面を見せることはなかったのでちょっとした雑音として聞き流すことができた。
というのも、彼女の環境は超一流だった。それはまさにピラミッドの頂上で、選ばれた一握りの人間しか味わうことのできない蜜の味を思う存分味わっていた。すべてを持っているがゆえの倦怠感だけが唯一の悩みという生活である。彼は否応なしにそれまでの自分の凡庸な生活を思い知らされることになったが、彼女と一緒にいる限り、どんな野望も遂げられるに違いなかった。
〈続〉
第1章 見返りなき愛 〈2〉
依子と出会ったのは今からおよそ半年前の、祝賀パーティーでのことだった。
四年前、全国で一、二を争うホテルチェーンを持つ、名うての『プロジェクトJC』から泰彦の勤める『サンライズ・コンサルタント』へ設計の依頼があり、その大役が目下成長株だった泰彦のところに回ってきた。念入りな打ち合わせを何度も繰り返した後、彼の設計したホテルの工事は急ピッチで進められ、予定通りクリスマスシーズンを睨んで完成。そしてその華々しい祝賀パーティーが催されたのである。マスコミを最大限に利用した派手な宣伝が功を奏し、斬新な造りをしたそのホテルは早くから話題にのぼっていた。自分の経歴に箔をつける仕事を完遂した泰彦は前途洋々だった。
一方、目鼻立ちのはっきりした美人で洗練された物腰の持ち主である依子は、『プロジェクトJC』の社長の一人娘というだけで立派に人々の羨望の眼差しを受けるというのに、その完璧な容姿は一種“出来過ぎ”の感があった。
そのパーティーで泰彦は依子と一度だけ言葉を交わした。彼が社長に挨拶に行った際、口紅と同じ上品なローズ色のスーツに身を包んだ彼女が傍らに立っていた。
「本当に素晴らしいホテルで、わたくし、父以上に気に入ってますのよ」
彼女が微笑みながらそう言うと、泰彦は無邪気に礼を言った。目に見えない隔たりを感じながら、〈生まれつき安易な生活を約束された〉この令嬢を他の人々同様に羨望の眼差しでみつめていた彼は、その時依子に一瞬狡猾そうな表情が生まれたことなどまったく気づかなかった。
〈続〉
第1章 見返りなき愛 〈1〉
泰彦はカウンターに座るとスコッチを注文した。この店に顔を出すようになって既に8年の、馴染み客の一人である。午前零時を回っていた。店には隅の一角でダーツに興じている若い女と黒人二人、それにサラリーマン風の中年男が一人いるだけだった。黒人の一人は熱中してか、英語で仲間にまくしたてている。
泰彦はからだをぐったりとスツールに預け、おもむろにタバコを取り出した。それから果てしなく立ちのぼってゆく紫煙をぼんやりとみつめていた。
今から4時間前、午後8時には依子がひいきにしているレストランで、彼女と一緒にフランス料理を食べていた。例のごとく全身をブランドで固めた美しい彼女に、内心うんざり気味だが気の利いた料理、そして1ヶ月後に控えた二人の結婚。夕方から降り始めた夏の優しい雨が行き交う車のライトに照らされて、煌めいているのがガラス越しに見えた。
確かに彼は幸福だった。
〈続〉
序章
地下2階にあるショットバー『S&M』は、壁にマホガニー調の板を張り巡らせ、点々と散らばる古めかしいランプが店内を黄金色に染めている。そろそろ五十に手の届きそうなマスターの思惑通り、〈大型クルーザーのキャビン〉を巧く演出していた。
上唇に髭を蓄え、万人受けする闊達そうな笑顔とテンポの良い会話、そして持ち前の鋭い眼力で二十年という歳月を一人で切り盛りしているこのマスターは、1年中小麦色の肌をしており、〈船長〉の役柄を難なくこなしている。
彼は“航海”に男の人生を追求し、実際に一級小型船舶操縦士の免許を持っている。毎年8月になると、旧友と二人、借りた小型の上で10日間、のんびりと過ごすことにしていた。二年もの間、数少ない休日を利用して没頭していた彼の長年の夢、25フィートのFRP船が先月遂に完成し、四十日後の初乗りを控えてとにかくご機嫌だった。
店の常連たちはマスターの人柄と、この“夢のかけら”のような居心地の良い空間に魅せられてやってくる。
〈続〉