SUMMER RAIN

夏の雨は時に優しく、時に無情・・・

第3章 裏切りの街角 〈6〉

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                 ※

 

 店に若い女と黒人二人が入ってきた。彼には三人の話す英語が耳障りだった。

 

                 ※

 

 亡者の集う競馬場から放心状態で女のアパートへ帰ってくると、アパートの前で彼の妻が待っていた。彼女はその太ったからだにピッタリ合った品の良いグレンチェックのスーツを着ており、右手には紺色の傘、左手には高価そうなハンドバッグを携えていた。

「どうなさったの? 傘も持たないで」と妻はさして感情を込めずに言った。

「何の用だ? 何でこんなところにいる?」と彼はこの上なく不機嫌な調子で言った。

「はい、これ」と彼女はバッグから一枚の紙切れを取り出して言った。「判を押してちょうだい。あなたの印鑑も持ってきたわ」

 彼はそれをひったくるようにして取った。離婚届けだった。既に彼女のサインは済んでいる。

「心配なさらなくても、子供は私が引き取ります。養育費もいりません!」と彼女は毅然とした態度で言った。

 突然のことで彼は一瞬躊躇した。しかし、すぐ開き直ったように黙々とその場でサインをし、その紙切れを乱暴に突き返した。

 彼女は満足そうにそれを眺めると、大事そうにバッグに収めた。「これでスッキリしたわ。会社に行ったんだけど、何やらすごい騒ぎだったわよ」

 それを聞いた彼はみるみる顔の表情を強張らせ、すごい剣幕で怒鳴り散らかした。

「うるさい! 用が済んだんなら早く帰れ!」

「はいはい、すぐ帰るわよ。実はね、私、当たっちゃったのよ、宝くじの一等が。一億三千万円よ!」茫然としている彼ににっこり微笑むと、彼女はくるりと背を向けて歩き始めた。

 その後ろ姿を見ながら、何を言っているんだ、この女。宝くじの一等だと! 一億三千万円だなんて馬鹿馬鹿しい、と思っていた。

 すると彼女はふいに振り返った。「どうやら留守らしいわね、あなたの愛人さん。まあ精々しっかりね。ごきげんよう!」弾んだ声でそう言うと、今度こそ本当に去っていった。

 彼女の言葉に一抹の不安を覚えた彼は、急いでドアの鍵を開けた。部屋は彼が朝、出た時と同じ状態だった。女はいた。ほっと安堵し、彼は窓際に座り込んだ。

 

                                 〈続〉

第3章 裏切りの街角 〈5〉

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 雲が低く垂れこめた競馬場は人で溢れ、澱んだ空気が広がっていた。遠ざかっていた勝負師の感覚はすぐに蘇ってきた。早速競馬新聞を買い、パドックを食い入るようにみつめては、赤ペンで印をつけたり数字を書き込んだりしていた。

 手始めに賭けた九レースは見事に的中し、五十万円は七十八万円になった。彼は馬券が外れて愚痴っている人々を得意満面で見回した。

 次の十レースでは勢いに乗って十万円ずつ三点買いをし、何とこれまた的中。今度はなかなかの高配当で、手持ちの金額は合計三百七十三万円にもなった。

 こうなるともう笑いが止まらなかった。待ち続けていた時が遂にやってきた、今日こそが運命の日、今、俺はでっかい波に乗っている、こういう時はその波に乗ってとことん勝負する、それが正真正銘のギャンブラーというものだ。ただの雑誌の受け売りだったが、いつもの青白い顔は珍しく紅潮していた。

 次は今日のメインレース、芝の二千メートルだった。オッズではダントツで五番の馬が一番人気、大本命である。考え抜いた末、彼が賭けたのは三番の単勝だった。ここが勝負どころとばかりに手持ちの現金すべてを賭けた。三百七十三万円をである。生まれつき小心者の彼は、買う時に微かに手が震えていた。

 買った馬券を祈りながら内ポケットにしまい、上着の上から軽く擦った。三番は二番人気で、オッズによると五倍になっていた。彼がなぜ三番を選んだかというと、新聞に載っていた占いで、今日の彼のラッキーナンバーだったからである。もし的中すれば、千八百六十五万円になるのだ。千八百六十五万円、その夢のような大金が、手を伸ばせば届くところにあった。

 遂に雨が落ち始めた。ファンファーレが鳴り、どっと歓声が沸き起こった。興奮状態だった彼は傘もささずに見守った。十六頭の馬は難なくスタートし、予想通りの展開を繰り広げた。三番の馬は中団で本命の五番にピッタリ張りついている。彼は思わずほくそ笑んだ。彼の描いたシナリオでは、最後の直線勝負で三番の馬がグングン伸びて見事五番の馬をかわし、そのまま一気にゴールを駆け抜けることになっていた。

 それは第三コーナーに差しかかった時のことだった。客席から悲鳴に近いどよめきが起こった。五番の馬が突然崩れるように倒れたのである。当然騎手は落馬し、後ろにいた三番の馬も巻き込まれた。大波乱となったレースはそのまま続行され、終わってみると万馬券になった。彼の歯はカチカチと鳴っていた。彼の波は去ったのである。

 

                                 〈続〉

 

第3章 裏切りの街角 〈4〉

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                 ※

 

 騒がしかった若者たちが店を出ていき、代わりに重苦しい沈黙が店を支配した。

「今、出てった中の一人、今日の競馬で大穴を当てたらしいよ」とマスターは空になった彼のグラスを笑顔で満たしながら言った。

 彼はマスターをすばやく一瞥すると、「そう…」と素気なく言った。

 マスターは出ていった若者たちのグラスを片づけ始めた。

 

                 ※

 

 今朝の彼女はこれまでとは一転して激しかった。明け方店から戻ってくると、寝ている彼の隣に横たわり、初めて自分から誘いかけてきたのだ。彼がその気になると、まるで何かにとり憑かれたように更なる快楽を欲して呻き声を漏らした。彼女の中で何かが燃えていた。

 そんな彼女に刺激され、彼はそれまで持ち合わせていなかった、女という生き物に心から何かをしてやりたいという感情を呼び起こされた。

「お前、欲しいものはないか?」と流れ出る汗を拭いながら彼は言った。

「何もいらないわ。あんたさえいてくれたら…それでいいの」彼女はそう囁くとまたからだをすり寄せてきた。

 彼はもう一度彼女の中へ入っていった。

 

 少ない睡眠時間にもかかわらず、彼は爽快な気分で会社に出た。しかも朝からツイていた。外回りは午後からだったので店頭にいると、ヤクザな外見をした中年男がやってきて、置いてある紺のメルセデスの中古に試乗したいと言う。二人でその車に乗り込み、会社のまわりをグルッと一周した。接客した彼は珍しく饒舌だった。

 ものの五分で話はついた。その男は即金を希望し、アタッシュケースから四百五十万円もの現金を取り出した。そんなことは初めての経験だったし、何とも胡散臭い話なので部長に事情を説明した。すると部長はすぐにその現金を銀行に預けるよう彼に指示し、「気をつけろ」と執拗に注意した。

 銀行に行く道中、その考えが浮かんだ。彼は持っていた現金を口座に振り込むと、どぎまぎしながら一路、競馬場へと向かった。上着の内ポケットには抜き取った五十万円が入っていた。それまで世間体を気にしてうまく振る舞っていたが、彼は根っからのギャンブル好きだった。得てしてギャンブル好きな人間というのは負けても懲りず、変な迷信に固執したり、ギャンブル美学なるものを崇拝していたりする。彼もまたそういった種類の人間だった。しかし景気が悪くなってからは、さすがの彼も賭博場に足を運ぶことができなくなっていた。

 その五十万円を元手に今日のツキなら何十倍にもなる、いや、何百倍にもしてやろう、そうしたら拝借した五十万円はすぐに口座に振り込めばいいし、残りの大金で彼女と二人、どこか遠くで暮らそうと考えていた。今日はすべてがうまくいくと、彼は信じきっていた。

 

                                 〈続〉

第3章 裏切りの街角 〈3〉

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 それから女は流していたタクシーを拾い、彼を自分のアパートに連れていった。部屋には必要最低限のものしか置いておらず、電話もなく、カーテンさえ取り付けていなかった。あまりにも色気のない部屋だったことは確かである。しかし、すでに口の渇きに耐えかねていた彼にとってそんなことはどうでもよかった。すぐさま女を押し倒すと、貪るように抱いた。

 彼の女性関係など知れたものだったが、彼女ほど肌の合う女は初めてだった。痩せたからだに似合わない豊かな膨らみや奥ゆかしい物腰が彼をますます興奮させた。彼女は声をたてることもなく、とかく従順で、彼の要求を何でも聞き入れた。

 それ以来、彼は妻と子供の待つアパートに戻らなくなり、女のところから会社へ通った。彼が帰らなくなって一週間後、妻が会社にやってきて戻るようにと懇願したが、冷たく追い払った。彼に戻る気など毛頭なかった。

 女は化粧を落とすと三十過ぎに見えた。相変わらず無口で自分のことを何一つ話さなかったが、彼は別に気にしなかった。彼女は妻のように不平不満を言わないし、何も欲しがらない。それにそのからだは店に出ている時以外は自分のものなのだ。彼女は失意の中にいた。彼にはそれがわかっていたし、それだけで充分だった。

 

                                 〈続〉

第3章 裏切りの街角 〈2〉

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 三週間ほど前、彼が二か月もの間に一台も売らなかったことで、遂に部長から〈給料泥棒〉とまで言われた。丸く、血色の良い部長の顔が自分を蔑んでいた。彼はカッと頭に血がのぼり、右手をギュッと握りしめたが、最後までその拳が振り上げられることはなかった。それは家庭を思ってのことではなく、単に意気地がないからだった。その部長には、胡散臭い連中との繋がりがあるという噂を耳にしていたのである。しかしさすがに家に帰る気にはならず、目についた安っぽいキャバレーへと足を運んだ。

 

 その店は繁華街から少し外れたところにある。仄暗い照明の中を喧騒が支配しており、置いてあるものは一目で安物とわかった。店の女は皆、お面を付けたようなこってりとした厚化粧をして歳を誤魔化し、どぎついピンクや紫色の、フリルだらけという悪趣味なドレスを引きずるようにして歩いていた。彼は三十五より若い女はいないと踏んだ。出てくるビールはすでに気が抜けて生温く、とてもシラフで飲める代物ではなかった。

 荒んだ魂を引きずってやってきた彼は続けざまに酒を煽り、寄った勢いで隣に座っている女の太腿を弄った。女はされるままにしていた。調子に乗ってその手を女の形良い胸元にもっていった時、初めて顔をまともに見た。たいした美人ではなかったが、瞳からは絶望が感じられ、口元には隠しようのない陰鬱が漂っていた。彼は放心したようにその顔を眺め、吸い込まれるように女の顔に擦り寄っていった。

 すると隣のテーブルに座っていたママらしき女が「ちょっと、お客さん! 駄目よ!」と怒鳴った。彼は憤慨して「やかましい!」と言い返したが、気分を壊されておとなしく飲み始めた。彼は酒豪で、いくら飲んでも酒に呑まれたことがなかった。

 女は無口だった。

「お前、男はいるのか?」と彼は前を向いたまま、ポツリと呟くように訊いた。

 女は俯いたままだった。そして長い沈黙の後、ようやく答えた。「いないわ」

 なぜかその時、彼は女に欲望を覚えた。無性に抱きたくて仕方がなかったが、自分の冴えない容姿のことを思い出してその思いを振り払った。

 ところが、そう捨てたものでもなかった。閉店時間までしぶとく居座っていた彼に、女が耳元で「裏通りの角で待っててくれない?」と囁いたのである。

 いくら彼でもこれまでに女に誘惑されたことは何度かあった。ただ、待てど暮らせど相手の女が現れないのである。だから今回もまたからかわれているのかもしれないと思いながら、半信半疑で待っていた。

 しかし、女はちゃんとやってきた。急いでやってきたらしく、顔は紅潮し、呼吸は乱れていた。

「行きましょう! みんなが出てくるわ」

 そう言われて彼はやっと我に返った。

「あ、ああ…」

 

                                 〈続〉

第3章 裏切りの街角 〈1〉

 

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 男が店にやってきたのは午後九時半頃だった。店は能天気な若い男女で溢れていた。マスターが一番奥に席をつくってくれ、ようやく座ると男はスコッチを注文した。

「久しぶりじゃない!」と琥珀色のグラスを差し出しながらマスターが言った。

「え? ああ、そうだね」と気のない声で男は答えた。

「四、五年になるんじゃない? で、どう、調子は?」

「良くないね」男は呟くようにそう言うと、スコッチを煽るように飲みほした。

 昔から愛想のないこの男に、マスターは諦め顔でおかわりを作った。

 

                 ※

 

 目が窪み気味の、陰気な顔つきをしているこの男は、今から七年前、彼が三十四の時、二十六回目のお見合いでようやく結婚にこぎ着けた。相手は彼より一歳年上の、甲高い声をした不細工な女だったが、初めて彼を受け入れた女だった。世間体を重んじる家庭で育った彼は、もう後がないという焦燥感から不本意ながらも娶ったのだった。

 結婚すると二人は次々と四人の子供を設け、彼の妻は一人生むごとに確実に体重が五キロは増え、今ではそれこそ立派な体格をしている。妻は大の子供好きだった。彼は自分の妻を愛しいと思ったこともなかったし、子供を煩わしがるタイプでもあった。

 彼はおよそ似つかわしくない車のセールスをしている。もともと口下手でコネもないうえに、追い打ちをかけるような景気低迷で、この一年というもの彼の売り上げはひどく落ち込み、ボーナスも以前の半分程度になってしまった。会社からは役立たずと罵られ、一間のボロアパートに帰れば妻に悪し様に言われ、子供たちは泣くか喚くかし、彼の窪んだ目はますます影が濃くなっていった。

 

                                  〈続〉

第2章 ヒッピーに憧れて〈7〉

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 ふと気がつくと、トミーが「ダーツをしよう」と呼んでいた。

「OK!」

 それから三人はダーツで盛り上がった。彼女は二人の永遠の愛を祈った。

 暫くすると、びしょ濡れになった男が一人で店に入ってきた。顔色は冴えず、心ここにあらずといった感じだった。

 三人はダーツに飽きて引き上げることにした。精算を済ませると、恵理は二人に外で待っているよう目で合図した。

「まだ降ってるのね」と恵理は男に言った。

 男はチラッと恵理を見て、止みそうにないと言った。男が傘を持っていないと言うので、自分のナイロン製の傘を強引に手渡した。それは男に対する同情というより、自分を勇気づけるためのものだった。

 

 外でジョージとトミーが待っていた。雨はやはり降っている。ジョージと相合傘をして三人で歩き始めると、通りの角に人影が二つ伸びているのが視界に入った。その影はどこまでもついてくる。

「まるで自分の影みたい」と思いながら、恵理はそのまま歩き続けた。

 

                                 〈続〉

 

第2章 ヒッピーに憧れて〈6〉

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 パリでの二人の関係は申し分なかった。麻美の機嫌がすこぶる良かったからである。エッフェル塔コンコルド広場、シャンゼリゼでのショッピング。恵理は大いにパリが気に入った。パリの人々は時間に逆らわず、自由にのびのびと生きている。何より彼女が好きだったのは、そこここにあるビストロでゆったりとした時間を過ごすことだった。夢心地の中で十日間が過ぎていった。

 

 久しぶりにサロンに行くと祥子の姿はなかった。不審に思った恵理がスタッフの一人に訊くと、四日前に辞めたと言う。恵理は麻美に疑惑を抱いた。しかしいくら問いただしてみても、麻美は「関係ない」の一点張りだった。何か釈然としないものを感じたが、確固たる証拠もないので麻美を信じることにした。

 それはほんの偶然だった。マンションに帰ると、その時間にはいないはずの麻美が電話で話していた。

「そう、あの子、そんなに稼いでるの。オホホホホ! それは良かったわね」

 恵理は息を殺してその声に聞き入った。

「で、源氏名は? やっぱり祥子なの?」

 

 その日から一年近く経っていた。麻美を本気で愛していた分だけ心が疼き、祥子のことを考えると身を引き裂かれるような思いだった。麻美の背信行為は恵理の崇拝していた思想に真っ向から対立し、すべてを汚してしまったのだ。

 麻美は気まぐれだが、自分のエゴには忠実である。ここまで執拗に追いかけてくるからには、彼女のあの陰鬱で醜い部分が想像以上に増幅しているに違いなかった。恵理はこれからの人生に〈過去の忘却〉が一方的に要求され、自分のすべてが封じ込められることを知っていた。かわりに、どんな些細な希望も打ち砕く麻美の下品な高笑いと、恵理の築き上げたものを一瞬にして砂の城に変えてしまう麻美のあの微笑が、じわじわとからだの奥深くまで浸透していくのだ。

 

                                 〈続〉

第2章 ヒッピーに憧れて〈5〉

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 恵理は麻美と違って物欲がなく、性別も彼女にとっては無意味なものだった。そして七十年代のヒッピーに漠然とした憧れを抱いていた。彼らのように何物にも囚われない自由な生き方をし、自分のすべてを解き放ちたいと思っていたのである。彼女の理想は男女を問わず純粋な精神で愛し、お互いを尊敬できる関係を築くことだった。愛と自由、そして尊敬と平等という、非常に聞こえの良い、矛盾だらけの蒼い思想を自分の人生に嵌め込もうとしていた。

 麻美の気まぐれや嫉妬深さに多少辟易させられてはいたものの、彼女の嫉妬心は自分を愛している証拠だと思い、麻美との生活にはかなり満足していた。麻美を愛していたし、何よりも二人の関係は自分の理想と合致していると信じていたからである。

 

 その日、恵理はいつものようにサロンで麻美を待っていた。ゆったりとしたソファーに座り、暇つぶしに雑誌を眺めていると、スタッフの一人である祥子が俯き加減で通りかかった。見ると彼女の目は赤く腫れていた。

「何かあった?」と恵理は心配して声をかけた。

 すると祥子は崩れるように抱きついてきて、ワッと泣き始めた。

 同い年ということもあって祥子は恵理に親近感を抱き、そしてその神秘的な雰囲気に憧れてもいた。だから恵理がサロンにやってくるといつも親しみを持った微笑みを浮かべ、麻美のいない時には気軽に声をかけてくる。恵理は彼女のあどけなさを可愛いと感じていた。

「彼氏と別れたの…」祥子は泣きじゃくりながらやっとそれだけ言った。

 こういう時に言葉が何の役にも立たないことを知っている恵理は、黙ったまま祥子の髪をそっと優しく撫でた。

 その瞬間、刺すような鋭い視線を感じた。顔を上げると恐ろしい形相をした麻美が立っていた。怯んだ恵理は思わず祥子を離した。祥子もすぐ異様な気配に気づき、そのグシャグシャになった顔で麻美を見るなり、「ごめんなさい!」と言って走り去った。

 その後麻美はそのことには触れず、何事もなかったかのように振る舞ったが、逆にその態度は恵理を不安にさせた。

 その夜、マンションに帰ると、恵理は麻美の機嫌の良い時を見計らって反応を窺った。「祥子ちゃん、彼と別れたらしいの。あんなに泣くなんて、よっぽどショックだったのね」

「そうなの、可哀相にね」と麻美は関心なさそうに言った。

 しかしその無関心さは麻美の精神状態の裏返しに思えた。「あの子とは何でもないのよ」と恵理は念を押した。

「そんなことわかってるわよ、馬鹿な子ね」麻美は恵理の肩を抱き寄せた。「それより明日からパリに出張よ。日本のことは忘れて楽しみましょう」

 それから二人は濃厚なキスをした。恵理はすっかり安心し、そのまま彼女に身を委ねた。

 

                                 〈続〉