第3章 裏切りの街角 〈3〉
それから女は流していたタクシーを拾い、彼を自分のアパートに連れていった。部屋には必要最低限のものしか置いておらず、電話もなく、カーテンさえ取り付けていなかった。あまりにも色気のない部屋だったことは確かである。しかし、すでに口の渇きに耐えかねていた彼にとってそんなことはどうでもよかった。すぐさま女を押し倒すと、貪るように抱いた。
彼の女性関係など知れたものだったが、彼女ほど肌の合う女は初めてだった。痩せたからだに似合わない豊かな膨らみや奥ゆかしい物腰が彼をますます興奮させた。彼女は声をたてることもなく、とかく従順で、彼の要求を何でも聞き入れた。
それ以来、彼は妻と子供の待つアパートに戻らなくなり、女のところから会社へ通った。彼が帰らなくなって一週間後、妻が会社にやってきて戻るようにと懇願したが、冷たく追い払った。彼に戻る気など毛頭なかった。
女は化粧を落とすと三十過ぎに見えた。相変わらず無口で自分のことを何一つ話さなかったが、彼は別に気にしなかった。彼女は妻のように不平不満を言わないし、何も欲しがらない。それにそのからだは店に出ている時以外は自分のものなのだ。彼女は失意の中にいた。彼にはそれがわかっていたし、それだけで充分だった。
〈続〉
第3章 裏切りの街角 〈2〉
三週間ほど前、彼が二か月もの間に一台も売らなかったことで、遂に部長から〈給料泥棒〉とまで言われた。丸く、血色の良い部長の顔が自分を蔑んでいた。彼はカッと頭に血がのぼり、右手をギュッと握りしめたが、最後までその拳が振り上げられることはなかった。それは家庭を思ってのことではなく、単に意気地がないからだった。その部長には、胡散臭い連中との繋がりがあるという噂を耳にしていたのである。しかしさすがに家に帰る気にはならず、目についた安っぽいキャバレーへと足を運んだ。
その店は繁華街から少し外れたところにある。仄暗い照明の中を喧騒が支配しており、置いてあるものは一目で安物とわかった。店の女は皆、お面を付けたようなこってりとした厚化粧をして歳を誤魔化し、どぎついピンクや紫色の、フリルだらけという悪趣味なドレスを引きずるようにして歩いていた。彼は三十五より若い女はいないと踏んだ。出てくるビールはすでに気が抜けて生温く、とてもシラフで飲める代物ではなかった。
荒んだ魂を引きずってやってきた彼は続けざまに酒を煽り、寄った勢いで隣に座っている女の太腿を弄った。女はされるままにしていた。調子に乗ってその手を女の形良い胸元にもっていった時、初めて顔をまともに見た。たいした美人ではなかったが、瞳からは絶望が感じられ、口元には隠しようのない陰鬱が漂っていた。彼は放心したようにその顔を眺め、吸い込まれるように女の顔に擦り寄っていった。
すると隣のテーブルに座っていたママらしき女が「ちょっと、お客さん! 駄目よ!」と怒鳴った。彼は憤慨して「やかましい!」と言い返したが、気分を壊されておとなしく飲み始めた。彼は酒豪で、いくら飲んでも酒に呑まれたことがなかった。
女は無口だった。
「お前、男はいるのか?」と彼は前を向いたまま、ポツリと呟くように訊いた。
女は俯いたままだった。そして長い沈黙の後、ようやく答えた。「いないわ」
なぜかその時、彼は女に欲望を覚えた。無性に抱きたくて仕方がなかったが、自分の冴えない容姿のことを思い出してその思いを振り払った。
ところが、そう捨てたものでもなかった。閉店時間までしぶとく居座っていた彼に、女が耳元で「裏通りの角で待っててくれない?」と囁いたのである。
いくら彼でもこれまでに女に誘惑されたことは何度かあった。ただ、待てど暮らせど相手の女が現れないのである。だから今回もまたからかわれているのかもしれないと思いながら、半信半疑で待っていた。
しかし、女はちゃんとやってきた。急いでやってきたらしく、顔は紅潮し、呼吸は乱れていた。
「行きましょう! みんなが出てくるわ」
そう言われて彼はやっと我に返った。
「あ、ああ…」
〈続〉
第3章 裏切りの街角 〈1〉
男が店にやってきたのは午後九時半頃だった。店は能天気な若い男女で溢れていた。マスターが一番奥に席をつくってくれ、ようやく座ると男はスコッチを注文した。
「久しぶりじゃない!」と琥珀色のグラスを差し出しながらマスターが言った。
「え? ああ、そうだね」と気のない声で男は答えた。
「四、五年になるんじゃない? で、どう、調子は?」
「良くないね」男は呟くようにそう言うと、スコッチを煽るように飲みほした。
昔から愛想のないこの男に、マスターは諦め顔でおかわりを作った。
※
目が窪み気味の、陰気な顔つきをしているこの男は、今から七年前、彼が三十四の時、二十六回目のお見合いでようやく結婚にこぎ着けた。相手は彼より一歳年上の、甲高い声をした不細工な女だったが、初めて彼を受け入れた女だった。世間体を重んじる家庭で育った彼は、もう後がないという焦燥感から不本意ながらも娶ったのだった。
結婚すると二人は次々と四人の子供を設け、彼の妻は一人生むごとに確実に体重が五キロは増え、今ではそれこそ立派な体格をしている。妻は大の子供好きだった。彼は自分の妻を愛しいと思ったこともなかったし、子供を煩わしがるタイプでもあった。
彼はおよそ似つかわしくない車のセールスをしている。もともと口下手でコネもないうえに、追い打ちをかけるような景気低迷で、この一年というもの彼の売り上げはひどく落ち込み、ボーナスも以前の半分程度になってしまった。会社からは役立たずと罵られ、一間のボロアパートに帰れば妻に悪し様に言われ、子供たちは泣くか喚くかし、彼の窪んだ目はますます影が濃くなっていった。
〈続〉
第2章 ヒッピーに憧れて〈7〉
ふと気がつくと、トミーが「ダーツをしよう」と呼んでいた。
「OK!」
それから三人はダーツで盛り上がった。彼女は二人の永遠の愛を祈った。
暫くすると、びしょ濡れになった男が一人で店に入ってきた。顔色は冴えず、心ここにあらずといった感じだった。
三人はダーツに飽きて引き上げることにした。精算を済ませると、恵理は二人に外で待っているよう目で合図した。
「まだ降ってるのね」と恵理は男に言った。
男はチラッと恵理を見て、止みそうにないと言った。男が傘を持っていないと言うので、自分のナイロン製の傘を強引に手渡した。それは男に対する同情というより、自分を勇気づけるためのものだった。
外でジョージとトミーが待っていた。雨はやはり降っている。ジョージと相合傘をして三人で歩き始めると、通りの角に人影が二つ伸びているのが視界に入った。その影はどこまでもついてくる。
「まるで自分の影みたい」と思いながら、恵理はそのまま歩き続けた。
〈続〉
第2章 ヒッピーに憧れて〈6〉
パリでの二人の関係は申し分なかった。麻美の機嫌がすこぶる良かったからである。エッフェル塔やコンコルド広場、シャンゼリゼでのショッピング。恵理は大いにパリが気に入った。パリの人々は時間に逆らわず、自由にのびのびと生きている。何より彼女が好きだったのは、そこここにあるビストロでゆったりとした時間を過ごすことだった。夢心地の中で十日間が過ぎていった。
久しぶりにサロンに行くと祥子の姿はなかった。不審に思った恵理がスタッフの一人に訊くと、四日前に辞めたと言う。恵理は麻美に疑惑を抱いた。しかしいくら問いただしてみても、麻美は「関係ない」の一点張りだった。何か釈然としないものを感じたが、確固たる証拠もないので麻美を信じることにした。
それはほんの偶然だった。マンションに帰ると、その時間にはいないはずの麻美が電話で話していた。
「そう、あの子、そんなに稼いでるの。オホホホホ! それは良かったわね」
恵理は息を殺してその声に聞き入った。
「で、源氏名は? やっぱり祥子なの?」
その日から一年近く経っていた。麻美を本気で愛していた分だけ心が疼き、祥子のことを考えると身を引き裂かれるような思いだった。麻美の背信行為は恵理の崇拝していた思想に真っ向から対立し、すべてを汚してしまったのだ。
麻美は気まぐれだが、自分のエゴには忠実である。ここまで執拗に追いかけてくるからには、彼女のあの陰鬱で醜い部分が想像以上に増幅しているに違いなかった。恵理はこれからの人生に〈過去の忘却〉が一方的に要求され、自分のすべてが封じ込められることを知っていた。かわりに、どんな些細な希望も打ち砕く麻美の下品な高笑いと、恵理の築き上げたものを一瞬にして砂の城に変えてしまう麻美のあの微笑が、じわじわとからだの奥深くまで浸透していくのだ。
〈続〉
第2章 ヒッピーに憧れて〈5〉
恵理は麻美と違って物欲がなく、性別も彼女にとっては無意味なものだった。そして七十年代のヒッピーに漠然とした憧れを抱いていた。彼らのように何物にも囚われない自由な生き方をし、自分のすべてを解き放ちたいと思っていたのである。彼女の理想は男女を問わず純粋な精神で愛し、お互いを尊敬できる関係を築くことだった。愛と自由、そして尊敬と平等という、非常に聞こえの良い、矛盾だらけの蒼い思想を自分の人生に嵌め込もうとしていた。
麻美の気まぐれや嫉妬深さに多少辟易させられてはいたものの、彼女の嫉妬心は自分を愛している証拠だと思い、麻美との生活にはかなり満足していた。麻美を愛していたし、何よりも二人の関係は自分の理想と合致していると信じていたからである。
その日、恵理はいつものようにサロンで麻美を待っていた。ゆったりとしたソファーに座り、暇つぶしに雑誌を眺めていると、スタッフの一人である祥子が俯き加減で通りかかった。見ると彼女の目は赤く腫れていた。
「何かあった?」と恵理は心配して声をかけた。
すると祥子は崩れるように抱きついてきて、ワッと泣き始めた。
同い年ということもあって祥子は恵理に親近感を抱き、そしてその神秘的な雰囲気に憧れてもいた。だから恵理がサロンにやってくるといつも親しみを持った微笑みを浮かべ、麻美のいない時には気軽に声をかけてくる。恵理は彼女のあどけなさを可愛いと感じていた。
「彼氏と別れたの…」祥子は泣きじゃくりながらやっとそれだけ言った。
こういう時に言葉が何の役にも立たないことを知っている恵理は、黙ったまま祥子の髪をそっと優しく撫でた。
その瞬間、刺すような鋭い視線を感じた。顔を上げると恐ろしい形相をした麻美が立っていた。怯んだ恵理は思わず祥子を離した。祥子もすぐ異様な気配に気づき、そのグシャグシャになった顔で麻美を見るなり、「ごめんなさい!」と言って走り去った。
その後麻美はそのことには触れず、何事もなかったかのように振る舞ったが、逆にその態度は恵理を不安にさせた。
その夜、マンションに帰ると、恵理は麻美の機嫌の良い時を見計らって反応を窺った。「祥子ちゃん、彼と別れたらしいの。あんなに泣くなんて、よっぽどショックだったのね」
「そうなの、可哀相にね」と麻美は関心なさそうに言った。
しかしその無関心さは麻美の精神状態の裏返しに思えた。「あの子とは何でもないのよ」と恵理は念を押した。
「そんなことわかってるわよ、馬鹿な子ね」麻美は恵理の肩を抱き寄せた。「それより明日からパリに出張よ。日本のことは忘れて楽しみましょう」
それから二人は濃厚なキスをした。恵理はすっかり安心し、そのまま彼女に身を委ねた。
〈続〉
第2章 ヒッピーに憧れて〈4〉
二年前、恵理はある高級クラブでピアノを弾いていた。その日もいつものように午前三時に店を引け、裏から出ていくと、一台の車が待っていた。
後部座席の女が顔を覗かせた。「ピアノ、すごく良かったわ」女は微笑みながら言った。「よかったら、うちに来ない?」その微笑みはとても優しく穏やかで、何の悪意も感じられなかった。恵理が車に乗り込むと、女は満足そうにみつめた。
それ以来、恵理は豪華なマンションで暮らし始めた。持ち主は有名なエステサロン『エクラ・ドゥ・ジュネス』の社長、峰岸麻美である。派手好きで強欲な麻美は、その完璧な美貌を武器に、あらゆる手段を駆使してその地位を獲得した。
彼女は男に興味がなく、特別若い女を好んだ。男と寝るのはそれなりの利益が伴う時だけである。業界で彼女の性癖は公然の秘密となっていたが、彼女を非難する者は一人もいなかった。彼女に睨まれると必ず面倒なことに巻き込まれるからである。しかし三十代を迎えてからというもの、衰えてきた肌をひどく気にし、毎日手入れに余念がなかった。
クラブで一目見るなり恵理の虜となった麻美は、当時二十一だった恵理のはちきれんばかりの若いからだや猫のような奔放さ、そして触れると壊れてしまいそうな脆さがたまらなかった。ベッドの上に横たわる二つの美しい肢体はいつまでも絡み合い、彼女の肉欲は果てることがなかった。露わになった乳房や禁断の園を優しく、時には激しく愛撫されると、彼女の口から悩ましい呻き声が漏れた。
恵理に対する独占欲は募る一方で、嫉妬心はどんな些細なことにも刺激されるようになっていった。だから、恵理がそれを望もうと望むまいと何でも与え、どこにでも連れていき、できることなら首輪をつけてやりたかったほどである。麻美はどうしようもない、ガチガチのエゴイストだった。そのため、本来なら若者特有の幼稚で窮屈な主張を嫌悪していたにもかかわらず、恵理がそれを主張すると、恵理の意思を尊重しているように見せかけながら実に巧みに操っていた。
〈続〉
第2章 ヒッピーに憧れて〈3〉
「久しぶりね、恵理。方々探し回ったのよ」
女は相変わらず美しかったが、肌に翳りが感じられた。完璧なメイクの下で、歳月が少しずつ、しかし確実に彼女の肌を蝕んでいるようだ。そこは殺伐としたところで、置いてあるのは小型テーブルとそれを挟んで布張りの肘掛け椅子二つ、そして鉄製の頑丈そうなベッドが奥にあるだけだった。ベッドを見た瞬間、ここでいろんな悪事が行われたに違いないと直感した。
「突っ立ってないで、座ったらどう?」女の微笑には隙がなかった。
恵理は黙ったまま、差し向かいに座った。
「一年になるのね。寂しかったわ。ちょっと大人びたんじゃない?」女は愛しそうな眼をした。
恵理は何も答えなかった。
「私から逃げようったって、どだい無理な話なのよ。これでわかったでしょ?」女はそう言うと、立ち上がって恵理の後ろにやってきた。「私たち、あんなに仲良くやってたじゃない。楽しかったわよね、そうでしょ?」恵理の耳元で淫らにそう囁き、首筋にキスをした。
「やめて!」恵理は思わず女を跳ねのけた。「いったい何の用なのよ?」
女はすっくと立ち上がった。「そう、じゃあ単刀直入に言うわ。来月パリに発つの。私たちの、思い出のパリよ。今回は一年の予定なの。一緒に行ってもらうわ」
「冗談じゃないわ! 誰があんたなんかと!」恵理がそう言い放つと即座に左頬を弾かれた。
「今度口答えしたら許さないわよ!」女は恵理の顎を軽く揺り動かしながら、苦々しそうに言った。それから「甘やかしすぎたようね」と一人呟いて、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
「全然わかってないのね。あんたに選ぶ権利なんかないのよ、恵理。今の生活、すっかり調べさせてもらったわ。黒人とつき合ってるんですって?」
「彼らは関係ない!」
ムキになって否定する恵理を見て、女は鼻でせせら笑った。「あんたが断ったりしたら、あの人たち、どうなるのかしらね」
恵理の顔からさっと血の気が引いた。「人でなし! 今度は何をするつもりよ?」
「あら、何のことかしら?」女のけたたましい笑い声が部屋中に響き渡った。「まあ、いいわ。一日だけ待ってあげる。あんたは優しい子だものね。よく考えなさい。ただし、逃げようったって無駄よ。ちゃーんと見張りがついてますからね!」
その後、女はベッドに行き、茫然と立ちつくしている恵理を尻目に挑発するような官能的なしぐさで横たわった。「ああ、恵理、あんたを早く抱きたいわ。あんたの肌が忘れられないの」
恵理は身震いし、一刻も早くその場を逃れたかった。だから努めて婀娜っぽく言った。「今日はもう、帰っていいでしょう?」
女は目を細め、まるで値踏みするみたいに恵理をじっと見つめていたが、目を伏せるとさっと起き上がった。それから無言でドアを“コンコン”と軽く二度叩くと、外にいた男がドアを開けた。
二人の男は来た時と同じように恵理を車に乗せた。車が国道に出た頃、雨が落ち始めた。恵理はじっと前を見据えていたが、その瞳には何も映っていなかった。ただ瞬きをする度に一筋の輝きが生まれた。
〈続〉
第2章 ヒッピーに憧れて〈2〉
今日の正午過ぎ、人気のない通りを恵理は一人で歩いていた。雨はまだ降っていなかったが、どんよりと曇った空がすべての色彩をぼやけさせ、生温かい風が肌にまとわりついて離れなかった。
突然、猛スピードでやってきた一台の車が恵理のところで急ブレーキをかけ、降りてきた二人のチンピラ風の男に無理やり車に押し込められた。恵理が抵抗しようとすると男はナイフをちらつかせ、「おとなしくしてろ!」とだけ言った。
車はひたすら郊外へと走り続け、辺りは緑一色になっていった。途中で走っていた国道から細い脇道に逸れ、今度は今にも覆いかぶさってきそうな森の中を果てしなく走った。舗装のなされていないその道は薄暗く、永遠に続きそうな気がした。
やっと空を垣間見ることができた時、目の前に一軒だけでポツンと建っている、廃墟のような白い二階建ての建物が忽然と姿を現した。辺り一帯を不気味な空気が支配しており、ありとあらゆる怨念がまとわりついていそうな、そんな印象を受ける建物だった。車はためらうことなくその前で止まった。
男たちは恵理を地下室へと連れていき、暗がりの中に放り込んだ。すぐにドアは閉められ、外から鍵が掛けられた。その冷たい金属音はすべての世界との断絶を思わせた。地下室はひんやりと涼しく、そしてあの独特なムスク系の香水の匂いが充満していた。手探りで電気のスイッチを捜し、明かりをつけた。女は肘掛け椅子に座っていた。
〈続〉